公共施設・学校

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花城小学校

花城小学校、葉書と同じ方向から写したもの

現在は市民体育館

下の絵は明治41年の消印がある花城小学校を描いた葉書です。賢治はこの年、花城小学校6年生です。花城小学校は、前々年の明治39年に新築の学校を焼失しました。この葉書に描かれている建物はそのあとに更に新築された校舎とおもわれます。 この葉書は、賢治の花巻農学校教師時代の教え子照井謹二郎が保管していたもので、ご子息の照井義彦氏からご提供いただきました。同じ学校を写した古い写真も残されていますが白黒です。この葉書では新築間もない校舎の色感がよくわかります。
なお、建っていた場所は別紙地図の④(PDFファイルを表示)の位置です。花巻市役所の隣で、昭和45年の岩手国体のバレーボール会場として体育館を建てるため取り壊されました。

稗貫農学校

現在は総合花巻病院が建つ

賢治が教師として定職にはじめて就いた学校。賢治の家から歩いて5~6分ほどの場所(別紙地図⑥、PDFファイルを表示)にあり、隣には後に親友となる藤原嘉藤治が勤めていた花巻高等女学校があった。稗貫農学校は郡立で、のち県立に移管されて校舎も移転新築されたため、この校舎に通ったのは1年少しであった。
写真の下の図面は、賢治農学校時代の教え子小原忠が作成した校舎の配置図で、「賢治研究」16号に掲載されたもの。御覧のとおり小さな学校で、隣の県立女学校と比べるとかなり見劣りしたようだ。

花巻農学校

花巻農学校跡、現在はぎんどろ公園

校舎跡には文化会館が建つ

賢治在職中の1923(大正12)年4月、農学校は郡立から県立に移管され、岩手県立花巻農学校と校名を変え、新校舎に移転した。しかし、県立移管時は修業年限2年制の乙種農学校で、3年制の甲種への昇格は、賢治退職後の1926(大正15年)4月からのこと。校長は畠山栄一郎。1925(大正14)年11月、校長が畠山は福島県立東白川農蚕学校へ転出し、同校から中野新佐久校長を迎えた。賢治は翌年の1926(大正15)年3月をもって依願退職している。在職期間は稗貫農学校を含めて44ヶ月であった。

賢治は「春と修羅 第二集」の「序」で、「この四ヶ年はわたくしにとって/じつに愉快な明るいものでありました」と回想している。


農学校正門



農学校全景

花巻町役場

移築された旧花巻川口町役場

昭和4年、花巻町と花巻川口町が合併。庁舎は昭和3年、青森県の国有林を払い下げをうけて、総ヒノキ造という豪華なものであった。賢治没後の11月23日に、この役場2階講堂で「宮沢賢治追悼講演会」が開催され、草野心平などが講演した。〈別紙地図を参照③PDFファイルを表示
現在は別の場所に移築され「市民の家」として利用されている。元の場所には現在の花巻市役所が建つ。

旧花巻町役場。現在の市役所の場所にあった。

稗貫郡役場

賢治が最初に奉職した稗貫農学校はこの稗貫郡役場が所管しており、郡長等の薦めもあり勤めることになった。場所は農学校の隣であった。〈別紙地図参照PDFファイルを表示〉 童話「猫の事務所」のモデルと一部でいわれているが、当地方で数少ない官衙であったためか。
のちに移築され大迫町役場として使用していた。庁舎改築の際保存の声があがり、現在は賢治と大迫の関係を展示する資料館として公開されている。賢治が地質調査で定宿とした旧石川旅館の調度品や早池峰山の鉱物などが展示されている。
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